憲兵の拷問:煙草の火 

  

  
 戦後に出版されたSM雑誌には、戦時中の目撃談を書いたものが多く掲載されていた。

 女責めもあるが、実際には男の拷問が多かったと思われる。

  

 



 筆者は、戦時中、川崎市の憲兵隊に勤務していた関係で、しばしばそのような場面を目撃した。

 憲兵隊といえば生き地獄、憲兵といえば羅卒のように考えられているが、あの苛酷な軍隊内の犯罪で、自白しないしたたか者が送られてくるところだから、自然、取り調べの方法も、徹底化したものが行なわれた。

 ことに軍人は、一般人よりも苦痛に強いので、警察などで用いる、殴る程度では自白するものはほとんどない。自然と、複雑な心理を利用した拷問が用いられた。
 その一つに、軍人の名誉をふみにじる侮辱的な方法として、性器に加える拷問がしばしば用いられた。
 昭和十六年、川崎市にかなり大がかりなスパイ事件が起こり、大学教授、学生などが検挙されて取り調べを受けたとき、その諜報を売った容疑で、連隊の河井という主計中尉が取り調べを受けた。

 何しろ兵隊や下士官と違って容疑者が将校であるため、憲兵隊では、それまでにかつてない緊張のうちに取り調べがつづけられた。
 中尉が容疑者だというので、取り調べには、中尉、大尉から少佐級の、いわば憲兵として最高のスタッフがそろい、特別取り調べ室で、日を夜についで行なわれた。
 初め二、三日は、将校を調べるにふさわしい慎重さと、ある敬意をもってしたが、頑強に否定しつづけるのをみると、だんだん取り調べの方法が手荒らくなり、平手が鳴り、乗馬ムチや竹刀が鳴った。
 下士官である筆者は、自由にその取り調べ室に入ることは許されなかったが、ある夜、用事でその部屋に入って行くと、河井中尉は、フンドシもはずされた素ッ裸のまま、鉄の寝台に大の字型に縛られて、すでに竹刀で殴られた後らしく、胸や腰に幾つかの傷がのこっていた。

 その周囲には、五、六人の尉官の憲兵が、突いたり小突いたりしながら尋問していた。
 「どうだ、まだ白状せんか。帝国軍人の、しかも将校が、こんな態にされても白をきるのか」
 と細田少佐が言った。素ッ裸にしたのは、軍人として耐えがたい恥辱を与えるつもりだったのであろう。

 しかし、頑として口を割らない河井中尉に対して、「どうあっても白状せんなら、性器に聞くこよになる。辛いぞ」
 と言いながら江橋大尉は、いきなり中尉の股間の男性のシムボルをつかみ、私たちでも目をそむけるような凌辱を加えるのであった。
 「玉を潰される前に白状することだ。ここに銅線を巻きつけて電気を流してやろうか」
 「銅線を巻き付けるのは、棒の方が利くようだ、剥きあげてから敏感な部分に巻くと、それは辛い拷問になる」
 中尉は、歯を食いしばって「うーむッ、こ、殺せ、殺せッ」と呻くだけだった。
 やがて、将校たちは、吸っている煙草の火を、亀頭部に、代わる代わる押しあてていた。
 河井中尉は、全身から湯のような汗を流して悶え苦しんでいた。

 中尉と言えば、階級のきびしい軍隊では、大した位であるが、一階級上官は、まるで子供でも折檻するような態度なのも、軍隊だからであろう。しかし、ペニスを剥かれて銅線を巻かれ電流を流される拷問の苦痛は煙草責めの比ではあるまい。

 さんざん責めと凌辱にあったのち、疲れ果てた河井中尉を、私たち兵隊は、助けるようにして独房につれて行こうとしたとき、中尉は「シャツと、フンドシを着けさせてくれ」と言った。

 私は、いならぶ将校たちに許しを得ようとすると、少佐は「スパイは犬だ。犬がフンドシをするか。貴様たちも、もう上官と思うな、犬扱いにしろ」 という。すると、将校の一人が、
 せめて、フンドシだけでも許してやってはどうかと言い出すと、少佐は、かたわらの縄を指さして、
「これを代わりに締めさせろ」
 と言う。私は、河井中尉の腰に荒縄を巻きつけ、余った縄を股間に通すと「そこを、力一ぱい締め上げろ」 と、またいう。

 締め上げられた河井中尉の陰茎も陰嚢も、見るも無残に充血して歪形して行くのだった。

 もがき苦しむ河井中尉の顔を、私は、今でも忘れることができない。
 河井中尉は、ついに自白しないまま官位を剥奪されて、川崎市の衛戍刑務所に終戦まで呻吟していたそうであるが、彼は、無実の罪に落とされたのだという話を、のちにきいた。

 その後の拷問で、河井中尉の陰茎が電気責めにされたかは知らない。

 しかし、彼は三十歳ばかりの美貌の青年将校であり、彼を、あんな淫虐な責めにかけた細田少佐は、今でいうサディストであることを思うと、おそらく河井中尉の亀頭は電気拷問の餌食にされたと思う。



   
 また、昭和十八年ごろ、外出先で婦女に暴行を加えたという容疑で、中村という上等兵が取り調べをうけたことがあった。この取り調べには、憲兵隊きっての竣烈苛酷な松井軍曹が当たった。
 中村は、どこまでも犯行を否定するので、吊り責めや水責めにかけられたが、依然自白しないので、ついには、木馬というものを使った。
 江戸時代の拷問図譜のなかに、木馬責めというものがあったのを、私は知っていたが、それにかけられる姿は、はじめて見た。もちろん全裸で、三角錐の馬の背にまたがされて、両足のくるぶしに鉄のおもりをむすびつけられていた。
 股間に食い込む三角錐の鋭角面に、中村上等兵は、あるときは悶え、あるときは呻いた。
「さんざんいい思いをしたのだから、セガレが辛い思いをするのは当たり前だ」
 と、松井軍曹は毒づくのだった。
「覚えありません」
 と連呼する中村上等兵に対して、軍曹は、陰茎の根元を細紐で縛り勃起させてから絹針で亀頭部を突きさいなんだ。
「二度と使いものにならないようにしてやる」と言いながら、悶える中村上等兵を責めるのだった。
 翌日、発熱した中村が、局部の苦痛を訴えると、軍曹は
「よし、オレがよい塗り薬をやろう」
 と、唐辛子を煎じて、その汁を局部に塗りつけた。転げ回って苦しむ中村上等兵を松井軍曹は、足下に、心地よげに眺めるのだった。



 昭和十八年、戦争が苛烈になったので、私は戦地行きを志願して、中支戦線に加わった。地獄のような憲兵隊から解放されたわけだが、そのころは、どこも血なまぐさい世界だった。
 私の属する部隊の斥候兵が、共匪の捕虜になり、あやうく斬首されるところを、討伐に行って救い出したが、彼の話によると、睾丸責めという珍刑にあわされたそうである。
 それは、捕虜を全裸にして後ろ手に縛し、両股を大きく開かせ、睾丸を台の上に載せて根部をカスガイで固定して動けないところを、前後からムチ打つのだそうで、のけぞることも出来ず、その苦痛は、言語に絶するものがあったといっていた。
 日清戦争のときに、清国軍の捕虜になった日本兵は、青竜刀によってシムボルを斬り落とされて絶命したものがあったそうで、中国には清朝まで、五カ所斬りという惨刑が公然と広場で行なわれていたほどだから、捕虜に淫虐を極めるのは当然と言わねばなるまい。
 そのほか、拷問と言わないまでも、日本軍隊の内務班内で行なわれた私刑のなかで、男性のシムボルに加えられたものは、かなり多い。
 全裸の捧げ銃はむしろ珍しくない私刑であるが、一度、靴を盗んで発見された兵隊が、全裸で、廊下にさらし物にされていたが、陰茎の先に編上靴が二足くくりつけてぶらさげられ、苦痛と羞恥に汗を流している姿を見たことがある。
 夢精で毛布をよごしたものは"高射砲"という珍刑を受けた。同班の者の面前で、われとわが手で自涜をし、ザーメンの射出をしなければならない。滑稽と悲惨とを交織したような刑である。
 また、夜尿症の新兵には、尿道にモグサを挿入して点火する刑があった。
 しかし、この刑を受けた兵士は、一遍で夜尿症がなおったというから、この刑罰にかぎっては、立派な効能があったということになる。